こんにちは須藤武美です

私の歩みから



 私の今日までの歩みを、簡単に書かせていただきます。

●幼少期から大学入学まで

 1954年(昭和29年)4月6日、埼玉県児玉郡神川町(利根川の支流の神流川沿いの田園地帯で、川を越えれば群馬県藤岡市というところ)に、兼業農家の次男、4人兄弟姉妹の末っ子として生まれました。家はけっして裕福ではなく、父は現場労働者として身を粉にして働き、母は畑仕事に明け暮れていました。それでも、6つ以上離れている他の3人の兄や姉と比べて不自由なく幼少期を過ごしました。

 社会の矛盾を感じながら、田舎育ち、貧しい暮らしへのコンプレックスも拭えず、人間なんて虚しいものと虚無主義に陥り、高校時代などは太宰治や坂口安吾を好んで読んでいました。

 同時に、現実生活では、安定した社会的地位と経済力を獲得しなければと受験勉強に没頭し、商社に入ろうと一橋大学商学部に進学しました。高校時代には「おもしろきこともなき世を厭いつつ 明日また生きる方策をねる」などと高杉晋作の辞世の歌(「おもしろきこともなき世をおもしろく 棲みなすものは心なりけり」)をもじって詠んだりしました。

 東京11区(板橋区)選出の自民党衆議院議員・下村博文さんは、高崎高校3年3組の同級生です。奇遇にも板橋の地で彼と選挙をたたかうことになりました。

●共産党との出会い、入党まで
 
 大学1年生の5月の連休明け、クラス討論の時間に、1人の学生が政府・自民党による大学の管理強化を批判し、集会・デモへの参加を訴えました。訴えの中身はよく理解できなかったのですが、社会の矛盾に挑んでいる姿に心を動かされ、討論終了後、その学生を追いかけ「僕、デモに行くよ」と返事をしました。これが、私と民主青年同盟(民青)との出会でした。

 ※民主青年同盟(民青同盟)=日本共産党を相談相手に仕事や学校など毎日の生活のことから社会のさまざまな問題までなんでも交流し、平和で青年の願いが実現する社会をつくろうと行動する青年組織。

 5月15日、集会・デモに参加した日に、民青に誘われました。話を聞き、幼少期から感じていた社会の矛盾、そして虚無的な気分、いろんなモヤモヤが解決できる道を探しあてられるような気がしました。実践と学習を通じて自己の確立をはかりたい、と民青同盟への加盟を決意しました。
 
 民青同盟での科学的社会主義の理論と日本共産党綱領の学習は楽しいものでした。社会には歴史的発展法則が貫かれ、ジグザグはありながら、着実に進歩・発展していること、日本共産党は文字通り命をかけて侵略戦争に反対し、主権在民を主張してたたかったこと、今の日本社会の矛盾の大本に、財界・アメリカいいなりの政治の異常があること、当面の社会変革は資本主義のなかでの民主主義の徹底にあること、などがよく理解できました。自分の幸せと社会進歩を重ね合わせ、誰もが幸せに暮らせる平等社会を実現する一翼を担いたい、と1974年12月、日本共産党に入党しました。

●学生運動に明け暮れた学生時代
 
 学生時代は、東京都学生自治会連合副委員長、全日本学生自治会総連合中央執行委員などを務め、学費値上げ反対、勉学条件の改善、有事法制反対など、学生の切実な要求を実現するとりくみに力をつくしました。大学の民青同盟班の責任者も務めました。こうした経験を生かし、党の専従職員になった後、1991年から3年間、日本共産党東京都委員会青年学生対策委員会責任者を務めました。
 
 大学入学直後から剣道部で活動し初段を取得しましたが、民青同盟の活動が忙しくなり、半年後の9月に退部しました。
 
 党の方針として、実践活動と勉学の両方を重視することが「学生党員の2つの任務」として強調されており、卒業論文も書きました。

●共産党の地区委員長を23年余務める

 1980年、大学卒業とともに、日本共産党に勤務しました。銀行やメーカーに就職する学生党員もいましたが、共産党の実践活動が楽しくてしかたなく、「政治と社会を変える仕事に、最大限ダイレクトにかかわりたい」という思いで、共産党の専従職員の道を選びました。今から思うと、一般の社会生活を経験した方がよかったか、「若気の至り」だったか、などの思いもよぎりますが悔いはありません。
 
 共産党に入っていること、党専従の道を選んだことについては、手紙で親・兄弟姉妹に知らせました。自分の幸せと社会進歩を重ねあわせて生きるのが日本共産党員の立場であることなどを書き連ねました。実家では大騒ぎになり、口数の少ない父親も「甘やかしすぎた」と語ったと後に聞きました。しかし、手紙を書いて一週間後、実家に帰ったときには、誰一人反対の言葉は口にせず、母親は「よく家を忘れずに帰ってきた」と迎えてくれました。「何で共産党に」という家族の気持ちが手に取るように感じられただけに、母の言葉が有難くもあり、かえって辛くもありました。
 
 最初の勤務地は出身大学の所在地の北多摩中部地区委員会、小金井市、国分寺市、国立市の三市を担当する地区委員会でした。学生宣伝組織者、地区常任委員などを経て、31才で地区委員長に就任し、途中3年間、都委員会青年学生対策責任者に就きましたが、通算で13年間北多摩中部地区委員長を務めました。この間、国分寺市、国立市に革新民主市政を実現する活動の一翼も担いました。その後、2001年11月から板橋地区委員長を務め、地区委員長歴は通算で23年半となりました。

 地区委員長の役割は、選挙戦を勝利に導く活動、財政活動をはじめ、責任が重いものでした。また一日の活動のまとめは夜となり、帰宅は深夜となりました。とくに30代の頃は、活動経験が少ないために共産党の仕事に全身全霊を傾けざるをえず、結婚して子どもが生まれ保育園への朝の送りなどは担いましたが、妻や子どもに大きな負担をかけることになりました。もちろん夏休み、正月、5月の連休など家族で過ごす時間はありましたが、子どもたちの悩みなどに日常的に相談にのる余裕がなく、のびのび育ってほしいとの思いを一方的に抱いていただけだったように思います。子育てはすべて妻任せという実態でした。この点については、忸怩たる思いを今でも拭えないでいます。

 共産党の専従職員として32年間、一言でいえば「国民の苦難の軽減と、切実な要求の実現に力をつくす」との思いでやってきました。昨年の3・11の東日本大震災、原発事故のあとは、石巻、仙台、女川などに足を運び、被災地支援にとりくみ、板橋区内での原発ゼロを求めるウォークにも参加しました。
 
 民主党政権が、消費税大増税と社会保障の引き下げ、原発再稼働、TPP参加をはじめ、自民党以上に自民党的な悪政をすすめている今、悪政の大本を切り替え、国民が希望をもって暮らせる社会の実現めざして全力をつくす決意です。板橋での10年余の活動経験を生かして、衆議院東京11区(板橋区)で国政に挑戦します。




 
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# by sudotakeyosi | 2012-05-03 01:33

はじめまして

はじめまして。須藤武美です。
日本共産党板橋地区委員会の地区委員長で、衆議院東京11区(板橋区)の国政対策責任者をやっています。今度、国政に挑戦します。
日々の生活、活動のなかで感じたこと、みなさんに伝えたいこと、訴えたいことなど、今後ときどき書かせていただきます。よろしくお願いします。
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# by sudotakeyosi | 2012-05-01 18:02